聖書とクリスマス(1)
ローマによる圧政と人びとの希望
16世紀にヨーロッパで起きた宗教改革に影響されていない私たち日本人にとっては、クリスマス(イエス・キリストの誕生)が人類にとってどれほど意義深いことなのかがあまりわかりません。日本人にとってクリスマスといえば、ケーキとケンタッキー・フライドチキンとサンタ・クロースくらいのことでしょう。興味深いことに、ウィキペディアはこう説明しています。
日本では12月25日は祝日ではありませんが、お隣の韓国ではクリスマスは国民の祝日です。では、なぜ世界中でイエス・キリストの誕生が祝われるのでしょうか? 旧約聖書によれば、彼を通して全世界に真の自由と解放がもたらさせるからです。
マタイ2章によると、イエスがお生まれになったとき、ユダヤの王はヘロデでした。ヘロデは37BCにローマ帝国の将軍アントニウスの援軍を受けエルサレムを征服し、ユダヤのハスモン家の王朝を滅ぼし、ローマ帝国からユダヤの王と任命されました。そして、ハスモン朝の最後の王アンティゴノスは処刑され、ユダヤ人はローマの圧政の下に置かれました。ヘロデは横暴な君主として有名です。彼は自分の妻と息子二人を殺し、人々は「ヘロデの息子となるよりは彼の豚になるほうがましだ」と言うほどでした。また、彼はベツレヘムの2歳以下の男の子を皆殺しにしました。
圧政に苦しむユダヤ人にとって、希望とは旧約聖書に預言されていたメシア(キリスト)の到来だったのです。そして、マタイ1章によれば、ヨセフの許嫁(いいなずけ)である処女マリアは聖霊によってみごもり、その後、彼らがベツレヘム滞在中にイエスが生まれたのです。彼がもたらす自由のことを聖書は「救い」と呼びます。
ところで、自由を保つためにギリシャ人とローマ人は、君主政治、貴族政治、民主政治について考えましたが、結局はやがてそれらの人間的なシステムが恐怖政治、階級主義、無政府主義に陥ってしまうことを理解していました。いったい真の自由とは何なんだろうか? 世界中の人びとがそう考えているときに、預言どおりイエス・キリストがユダヤに現れ、その素晴らしい評判がまたたくまに広がっていったのです。イエスは人々に言われました。
「もしわたしの言葉のうちにとどまっておるなら、あなたがたは、ほんとうにわたしの弟子なのである。 また真理を知るであろう。そして真理は、あなたがたに自由を得させるであろう。」(ヨハネ8:31-32 口語訳)
そう、真理は私たちを自由にします! 天使ガブリエルはヨセフに言いました。
イエスは私たちを罪から救うために来たのです。真の自由の無い世界、すなわち罪の支配する世界だからこそ、御子イエス・キリストは全世界の希望なのです。だからクリスマスが多くの国々で祝われるのです。
聖書は人間にとって最良の書物! その理由(3)
私たちに希望を与える
『聖書』は神のストーリーです。英語のストーリー (story) の語源はヒストリー (history) です。だから、歴史とはヒズ・ストーリー (His story)、つまり神の物語といっても決して過言ではありません。さて、どのようなストーリーにもたいてい主人公と悪役が必要です。主人公は英語でヒーロー (hero) やプロタゴニスト (protagonist) とか呼ばれますが、その言葉の起源はコイネー・ギリシャ語 (4世紀BCから6世紀AD) にさかのぼることができます。すなわち、プロタゴニストという単語のプロトス (protos) は、ギリシャ語では「第一の」という意味で、アゴ (ago) は「導く」という意味です*1。なので、ヒーローとは正義を勝利に導く第一人者のことです。たとえば、アメリカのコミックで人気を博したバットマンは当然のことヒーローです。彼はジョーカーをやっつけ、ゴッサム・シティに秩序と平和をもたらします。正義が勝利するのでストーリーの中に希望があるのです。ところで、『聖書』の主人公、ヒーロー、プロタゴニストは神です。だから『聖書』を読むときは、このお方が最終的に人間のために勝利と希望をもたらすということを念頭に置いてください。『聖書』は歴史に基づいたヒーロー・ナラティブだからです*2。旧約聖書のゼパニヤ3:17が、このことをよく表しています。
私は2000年1月にクリスチャンになるまで、両親の影響で無神論者として育ち、私の小さな了見で、神は当然いないだろうと考えていましたが、神のない世界には真のヒーローはいない、がゆえに希望はないということまでは認識していませんでした。ところが、『聖書』では、神の御子イエス・キリストが死者からの復活を通して死に勝利し、人類に希望をもたらします。『聖書』に言わせれば、彼こそ十字架の苦しみを耐え忍び、死に打ち勝った真のヒーローなのです。けれども、神のない世界では、死が常に人類を支配するので、ヒーローもなく希望もないのです。「どんなに頑張ってもどうせいつか死ぬんだ。」と思ったことはないでしょうか? しかし、『聖書』は私を狭い視野から解放し、神のビッグ・ピクチャーを見せてくれました。その本をじわじわ読み進めたところ、「イエス・キリストを信じる者は、決して滅びることがなく永遠のいのちを持つ」 (ヨハネの福音書3:16) という、神のストーリーの結末 (オチ) が書いてあることを何と発見したのです。そのとき私は、人類の罪 (私の罪も含めて) は死をもたらすが、『聖書』の与える希望とは永遠のいのちを得ることだ、というローマ人への手紙6章23節のみことばをやっと理解し希望と平安を得たのでした。
聖書は人間にとって最良の書物! その理由(2)
私たちに目的を与える
どんな組織にも、その組織の目的、ゴール、そこに到達するために必要な価値観、態度、手段があるはずです。リーダーシップの専門家であるジョン・マクスウェルは次のように言いました。
年を取ることは自動的だが、上達することはそうではない。
たとえば、ゴルフが上達するためには計画や鍛錬が必要なのは言うまでもありません。どんな競技でもチームとしてトーナメントで勝つためには、何らかの目的やゴール設定が必要です。ところで、『1分間マネージャー』の著者のケン・ブランチャードはこう言いました。
ネズミ競争の問題は、たとえ勝ったとしてもあなたがネズミであることに変わりないと言うことだ。
彼の言いたいことはこうです。人間とは、より優れた目的を持たなければ、どのようなゴールに達しても満足しない生き物ななのです。
『聖書』は私たちにより優れた目的を与えます。それは人間が悪魔に打ち勝つことです。『聖書』によれば、人間は、神が執筆した大きなストーリーのなかの主人公なのです。神のその大きな物語の中で、人間は悪に打ち勝ち、正義をこの地上にもたらすようにデザインされています。ヤコブの手紙4:7とヨハネ第一の手紙5:4-5にはこう書いてあります。
悪魔の存在は科学では証明できません。事実、人間の理性で目に見えない世界をすべて理解するのは不可能です。にもかかわらず、私たちは物語(ナラティブ)という手段で、理性には捉え難い、目に見えない世界を描きだそうとします。だからこそ、『バットマン』や『スパイダーマン』、『スターウォーズ』、『ナルニア国物語』のような映画に私たちは興奮するのではないでしょうか。
私たちはそれらの物語(ナラティブ)を通して、ヒーローやヒロインに自分を重ね合わせ、追体験を通して、大きな目的の中を歩むので感動を覚えるのです。同じように、私たちは『聖書』の与える目的の中を歩み、正しいゴール設定をすることで、はじめて充足感を得るのです。4-5世紀の神学者アウグスティヌスの『告白』1:1:1の言葉は有名です。
というのも、あなたはわたしたちをあなたのために造られたので、わたしたちの心はあなたのうちに憩うまでは安らぐことがないからです。
31歳のアウグスティヌスは『聖書』の中に生きる目的を発見しました。
聖書は人間にとって最良の書物! その理由(1)
私たちに正しい視点を与える
17世紀のヨーロッパで理性主義という哲学が始まりました。それは人間の理性という尺度で理解できる事柄のみを信じる考え方です。理性主義の欠点は、私たち人間がその小さな了見をもって無限に広がる世界を知ることができると勘違いしてしまうことです。それはすごく小さな土台にすごく大きな家を建てるのに似ています。家の重みが土台をつぶしてしまいます。『ヨハネの福音書』を書いた十二弟子の一人のヨハネはこう言っています。
神を書物に入れることができないならば、同じく、神を人間の脳に収めることもできません。聖書的にいえば、神は人間の了見をはるかに"はみ出し"ます。神は人間の理解を超えてはるかに大きく、それに対して、実は人間はすごく小さいのです。イスラエルの王ダビデはこう謳いました。
『聖書』はあなたに正しい視点を与えることができます。神は広がり行く宇宙のサイズを正確に知っています。もしそうならば、神の尺度(ものさし)は精密で正しいのです。 紀元前8世紀のイスラエルの預言者イザヤはこう言いました。
神のものさしとその尺度が正しければ、人間の取扱説明書である『聖書』は正しいのです。そして、『聖書』が私たちに正しい情報を提供し、その情報を通して、あなたは自分が何者であるか、世界はなぜ存在するかを知ることができるのです。正しいレンズを通して、はじめてあなたは自分を取り巻く世界を見ることができるようになるのです。